にょろにょろブログ

にょろにょろと地をはいつくばりながらえへへと笑っている。ただ思っていることとかを書くだけのブログです

『貧困報道を「トンデモ解釈」する困った人たち』という記事を読んだ


貧困報道における「かわいそうバイアスの限界」。これを書いたルポライターの鈴木大介 さんは『「犯罪する側の論理」「犯罪現場の貧困問題」をテーマに、裏社会や触法少年少女ら の生きる現場を中心とした取材活動 を続けるルポライター』だそうです。(検索結果 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準)

この記事の内容をとてもざっくりとまとめると、
結局貧困の現実っていうのはかわいそうとかそんな綺麗な世界ではない。それでも知ってもらうことがまず大切だから、多少「かわいそうバイアス」をかけて書いたりもする。しかし、読者からくる反応は「日本に貧困など存在しない」「努力が足りない」「アフリカや戦中の暮らしの方が苦しい(苦しかった)」「防犯に役立てます」とか的外れなことばっかり。日本には実は「格差社会」なんかではなく「階級社会」で、ある一定以上の階級の人の想像力では、日本に貧困が存在すること自体想像できない。そういう人にいくら貧困があるということを伝えようとしても伝わらなかったり、もしくはそこに手を差し伸べようとするのではなく、持たざる人からどうやって持っているものを奪われずに守るか、という方向にしか発想がいかない。

では本当に、どうすれば……。結局、無能な僕には答えが出ないから、無力感や徒労感にさいなまれつつも代わり映えのしない「かわいそうバイアス」という芸風で記事を描き続けている。今もって「どう報道すべきか」に答えは出ないが、この問題は「こうあるべきです」と正解を提示するのはジャーナリストの先生様のお仕事で、僕は多くの人に論考してもらい、思索を深めていくことのほうが大事にも感じているからだ。
記事の終盤、鈴木さんはこうおっしゃっています。

私もどう報道したらいいかとかそういったことはわからないけれど、思うことがあるから書いてみる。

この間家に帰って夜のニュースを見ていたときに、奨学金返済で生活が苦しい若者の特集が放送されていました。
それをうちの祖父が見ながら「こんなのもいるんだなぁ」とヘラヘラ笑ってた。
いや、それ、おたくの孫ももらってる奨学金だからね……?
私は報道されてる人たちと比べればずーっと楽なんだけど、毎月お金を返す辛さはなんとなくわかる。それが何十年も続く。貯金できる額なんてほんとに雀の涙レベルだし、将来に希望なんて持てるわけがない。まあ、もっと切り詰めて暮らすこともできるんですが、全てを切り詰めていって、楽しみがなくなったら生きているのがいよいよ辛くなってしまう。

でも経験していない人がいくらそういったものを見聞きして触れても、「へぇ」くらいにしか思わない。問題意識なんて持つわけがない。
鈴木さんのやるせなさは、このときの私が抱いたやるせなさのウン十倍、ウン百倍なんだろうなぁと思う。

人間はやっぱり経験したこと以外想像ができないし、共感もできない。それは自分もそう。友達の苦しみにさえ、正直全く共感できないこともある。
「今時の子は想像力がない!共感力がない!」とかいう人たちもいますけど、その人たちだって若い世代の気持ちなんてまったくわからないだろうし想像も共感もできてないじゃん。
人間はそういう風にできてるんだと思いますよ。もしあらゆることをあまりに豊かに想像したり共感したりしたら、疲れてボロボロになってしまう。心が壊れてしまう。世の中は辛いことだらけだから。貧困、暴力、不治の病、戦争、殺戮……

じゃあまったく想像も共感もしなくていいのかというと、そうではない。人間は経験したことがないことは想像も共感もできない生き物だからこそ、ジャーナリズムや学問や芸術がある。
ジャーナリズムは、自分が想像したことのない現実を見せつける。見えていなかったけれどそこにある現実を掘り起こす。無関心な人の目には映らないかもしれないが、少数の鋭い目にはそれが映る。
学問は、それがどうしてそういう風になっているのかという「しくみ」を提示する。感情として当事者に寄り添うことは難しくても、それがどうして起こっていて、なぜなくならならないかが「理解」できれば、「想像」「共感」に少し近づく。
映画や文学、絵画などの芸術は、感情を揺さぶる。ときに当事者の感情を生々しく描き出し、ときに寓話的に現実の不条理を語る。それは理論とか理性を飛び越えたところで心に刺さる。
こういったものに触れることではじめて、人は想像や共感に近づくんじゃないかと思う。

だから、結局はいろんな人がいろんな角度から問題を考えていって、それをいろいろな形で解釈したり表現したりして、またさらにそれを他のたくさんの人たちが見て考えていく、っていう繰り返しがないといけないんだろうなぁと。
たしかにジャーナリズムの力ってそんなに大きくないのかもしれない。でも、発信しなければ誰も知らないままだ。行動するレベルではなかったとしても、知っているか知らないかだけでも全然違う。知っている人が増えれば世の中はちょっとずつ変わっていくと思う。

朝からそんなことを考えてました。

まあ、無知や無理解で人を傷つけてきたことはたくさんあるので、まずは私ももっと近くの人たちの気持ちを考えられるようにならないといけないけどね……。